音楽を中心に。パクること、それが世界への恩返し。


by stereo-switch

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テクノは錬金術

テクノはループを素材にし、単一の素材そのものより、ループとループが同時に存在したとき、どういう効果が生まれるかを実験する。

フーガや音列音楽の技法に、拡大や縮小があるのと同様、ループは、それぞれ、異なった周期をもっていてかまわない。

ループできさえすれば、何でも素材になりうる。
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by stereo-switch | 2004-07-31 01:24 | 作曲

ジャズ理論?

ジャズに理論(theory)はない、手法(method)があるだけ。
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by stereo-switch | 2004-07-29 00:58

それは何という学問?

最近、構成にハマっています。

クラシックで、楽式と呼ばれるものです。しかし、楽式論では、すでにできあがったものとして、構造が語られがちで、あまり面白くありません。分類的記述に満足してしまっています。

(クラシックの理論は、理論というより、最大多数的な共通点を集約したもので、当然、個別的な現象は、範疇の外に置かれてしまう。考えようによっては、規則からの逸脱という、一番おいしい部分が、捨てられてしまっている。
理論に頼りすぎるのは、キケン。愛用し過ぎてぶっ壊れるぐらいまで使わないと、まったく意味がない。)

なぜ構成があるのか、という青臭い議論は、皆様あまりしたがらないようです。明確な答えが期待できないからでしょう。

シェーンベルクは、人間の理解力には限界がある、わかりやすくするためには、作品を部分に分割する必要がある。それぞれの部分には、当然、何らかの統一性がなければならない、と言っています。また、彼は、音楽のほんとうの目的は、美ではなく、わかりやすさである、と言っています。

また、島岡譲という人は、音楽は’ゆれ’の重層的な建築である、とし、なかでも、和声的な’ゆれ’(安定→不安定→安定)が、音楽の主導的要因だとしています。そして、不安定のフェーズが、曲の中で大きな比重を占め、独立した区間として、わがもの顔にふるまうようになる、そんなふうに形式の発生を説明しています。俯瞰的ではありますが、スッキリしてます。

クラシックでもポピュラーでも、詞との絡みで論じられることがあります。
西洋の詞は、定型詩の深い伝統に根ざしており、かなりの程度、形式が絞れます。
「内容」との絡みから論じる、勇気のある人もいます。これは作詞家の立場ですが、verse/chorus形式の場合(Aメロ→サビで、Bメロがない)、chorus部では、誰にでもあてはまる、普遍的な内容を唄うのが妥当、などなど。

日本のポップスでいえば、ロック系の人がたまにverse/chorus形式を使うものの、ほとんどがA→B→サビの三部形式です。どうも、日本人はBメロが大好きなようです。Bメロで、ちょっと振り返ったり、別の角度から見たり、悩んだりしてから、サビで、やっぱ自分の考えていることは正しい、と確認する。
これは、そのほうが共感されやすいからですかね?クラシックのソナタはまさしく弁証法的ですが、こちらの方は連続ドラマ的とでもいいましょうか。文字通りの起承転結です。
最初はまず、人物の登場、情況の説明。(ちなみに、視聴者はみんな、「この二人がくっつくんだろうな」と、見る前から知っている。)
そして、ちょっとうまくいって、なんかいい感じになる。
ところが障害発生。大いにもめる。
最後は、がっしり大団円。もめた後だけに、充足感も深い。汗をかいた後のスポーツドリンクなみに。
感情の流れを誘導する手法ですね。参加している気分になる。
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by stereo-switch | 2004-07-27 23:22 | 作曲